恋愛の道も悟りがいるかもしれない、経験が重要かも知れない
新釈 猫の妙術: 武道哲学が教える「人生の達人」への道
佚斎 樗山 (著), 高橋 有 (翻訳)
老猫の達人が若い猫剣士に道を教える設定で、面白い。
「現実とは限りのないものなのじゃ。鼠の姿や振る舞いもまた無限。ならばどうする? 技を限りなく増やすのか?」
「現実の無限には、こちらも無限で応じねばならぬ。そのために身につけなければならぬものこそが、道理なのじゃ。鼠を捕るための正しい道理さえ、身のうち心のうちにあれば、必要な技など自ずから出る。自分の知らない技でさえ限りなくな。こうなって初めて、現実の無限に無限で応じることができるじゃろう」
「わかっておらぬな。強い弱いなどというのは、必ず移り変わる。自分だけがいつまでも強く、敵が皆弱いなどということがあるわけがない。おぬしの気がいかに強くとも、必ずそれより強い気の持ち主は現れるのじゃ。どんなに強くとも、強さなどというのはその程度のものよ」
「(前略)浩然の気は、心の内の道理の赴くままに振る舞うことで、どんどん活き活きと働くようになる。相手より強いかどうかは問題ではない。どれだけ道理に寄り添うかなのじゃ」
「どのようにする、だと。それがまたいかんのじゃ。よいか。考えず、しようとせず、ただ心の『感』に従って動くのじゃ。そうすれば、その自然の中に融け込んで形はなくなる。形さえなくなれば、もはや天下に敵無しとなるのじゃ」
「道理」の純粋さを高めよ
「そうじゃろうな。そもそもおぬしは勝つことにこだわり、その先に何を求めておるのかのう。名声か、金か?」
「心にたとえわずかでも、こうしたい、というこだわりがあれば、それは形となって現れる。そして、その形こそが、敵だ己だなどというくだらぬ構図を生む。果たして無意味な技比べが始まりじゃ。これでは、自在な変化などできようはずがない」
「よいか。現実も己が心も、その底にあって動かしておるのは道理なのじゃ。道理には決まった形などない。そこにあるのは変化だけじゃ。だからこそ、現実は移り変わり、それに従って心も自然と移り変わる。変な邪魔さえしなければな」
「『そこ』と『ここ』を分かつのと同じく、生と死も、分かつから恐ろしいのであろうか」
「そもそも、生と死を分けてなんの意味がある。それを分かとうと分かつまいと、死ぬ時は死ぬ。そこを分けて残るのは、苦しみや恐れだけではないか。そして、その苦しみや恐れは、まだ死んでもいないうちから、『死にたくない』『死なないためには』などと頭でっかちで余計な形を生む。そして、道理の自然な変化から人を引き離し、生を害する」
「教えとは畢竟、相手が自分で見ようとしない場所を指摘することじゃ(以下略)」
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